人の目を気にしすぎて人間関係に疲弊する、そんな自分に悩み嫌な気持ちが増える。こんな悪循環に苦しむときが良くあります。

で、「人の目を気にしすぎないようにしましょう」と言うのですが、それが出来ればこんなに苦しんでないんです!

そこで「『人の目を気にする』ことを止めなくてもよい別の方法、「相手のために、相手(人)の目を気にする」をご紹介します。

人の目を気にする≠自意識過剰という図式もある

「人の目を気にする」ことが人間関係のストレスの原因と言われるとき、往々にして、その人のことを自意識過剰です、と言ったりします。でももし人間が人の目を気にしなかったら、社会はどうなってしまうでしょう?

配慮に欠けた、鈍感で不愉快な社会・・・。

ということは「人の目を気にする」こと自体は、他人への配慮や気遣い、心配りの元になる行為であって、必ずしも無理して止めるべきことではないと思うんです。

「人の目を気にする」には良・悪の2種類がある

私の周囲にいる、繊細な心配りができる人には、人の目を気にしすぎて人間関係に苦しんでいる人(仮にAさんとします)と、人の目を気にすることで人間関係を円滑にしている人の2種類がいます(仮にBさんとします)。

Aさん:
→「仕事がダルイ」という冗談を言ったら、同僚がいやな顔をした。自分が本気で仕事をさぼる人間と思われたのではないだろうか?

Bさん:
→「仕事がダルイ」という冗談を言ったら、同僚がいやな顔をした。同僚は一緒に担当している仕事の負担を押し付けられると不安になったのではないだろうか?

同じように、同僚の表情の変化を見逃さず、気にしています。しかし、受け止め方がちょっと違います。

人の目を気にするのは自分のため?相手のため?

AさんとBさんの違いは、「同僚がいやな顔をした」理由をどう考えたかの違いです。

Aさん
「自分が~と思わ”れ”たのでは?」 → 自分がどう思われたかを気にしている

Bさん
「相手に~と思わ”せ”たのでは?」 → 相手にどういう影響を及ぼしたか気にしている

この二つは、似ているようで、正反対なのにお気づきでしょうか?””でくくったところ。”れ”と”せ”。受け身的か主体的か。

Aさんが人の目を気にするのは、「『人が自分をどう評価したか』の答えを知る」ためのものです。相手の評価ありき、という感じがして、どちらかというと受身的な姿勢ですね。もっというと、自分のために人の目を気にしていそうです。

これに対して、Bさんが人の目を気にするのは「自分の言動を『相手がどう受け止めたか』を見定める」ためです。自分の行動ありき、で主体的な感じがします。そして相手のために人の目を気にしていそうです。

「相手のために」人の目を気にすることにする

「『私は』『僕は』という一人称を良く使う人は、うつ病になりやすい傾向がある」という研究結果が海外で発表されたそうです(私! 僕! 俺! 一人称単数形を頻繁に用いる人ほど鬱になりやすくコミュニケーション下手であることが判明 | ロケットニュース24)。

けっきょく「自分のことだけを考えすぎると、苦しくなる」ということではないでしょうか?

しかし、最初に書いたように「人の目を気にする」ことができるというのは、人として大切なこと。大切にしたい能力です。だから無理して止めなくていいと思います。

ということは、自分のことを考えすぎないように、人の目を気にすればいいのでは?それが「相手のために、相手(人)の目を気にする」という方法です。

私の場合

私も長年、人の目を自分のために気にして生きてきました。

人の集まる場所に出かけた夜は、激しい自己嫌悪に苦しみました。何日も後から自分の言動を気にして、こう思われたああ思われた、と強いストレスに苦しんでいました。

人の目を気にしすぎだね、と言われたので、人の目を気にしないように、と自分に言い聞かせたことも何度もあります。でも人の目はやっぱり気になるんです。

だから、気にすること自体は止めないことにしました。できないことをやろうとすると、苦しみが二倍になってしまう!

その代わりに、人に会った後で「あの発言が・・・」とネガティブ思考モードになったときに「おもしろくないやつやと思われた」という思考を打ち消して、「面白くなかったかな?次はこう言ってみよう」と相手のためにできることを考えるようにしました。

そしたら、ちょっとだけ(最初はちょっとです)、気持ちが軽くなりました。それまでは、自分しかいなかった思考の中に、”相手”が登場することで、自分に対する不安が半分に薄まった感じです。

とにかく簡単に。自分にできるやり方でいきましょう。